何回でも論文添削!技術士(建設部門・総合技術監理部門)受験 被災地からのメール(その2)
被災地からのメール(その2)
 被災地からのメールの続編を掲載します.ある程度覚悟していましたが,やはり多くの児童も犠牲になっているようです……本当に残念です.
 津波に掲載した文面の下線部は,当人が引かれたものです.このブログを見ていただいている皆さんには,被災地からのメールを通じて,自分なりに何か感じ取っていただければと思います. 

 私自身、昨日わかったことなのですが、海に近い小学校の児童約160人が不明であるとのこと。その小学校は、私の通勤途中にある学校なのですが、津波のあと、いつもの道を6時間かけていった先の道路が瓦礫の山で、通行不能となっておりました。
 私は、帰宅をあきらめてここで一夜を明かそうかと思いました。ちょうど、その近くにこの小学校がありましたので、もしかすると避難場所になっているのではないかと思い、深夜11:00ころと記憶しています。
 月明かりを頼りにいってみました。暗くてよくわからなかったのですが、建物は何事もなく残っているように見えました。しかし、誰もいないので”おかしいな”とは思いつつ、引き換えしてきたのですが...まさか、こんな事態になっているとは想像してもいなかったので、相当なショックを受けました。

 私自身はというと、そこで一夜をすごそうか、または車を置き捨てて家まで歩こうか、あるいはかなりの距離を走行することになるが一旦会社方向へもどり、内陸側を迂回しA道路を通って強行で帰宅しようか、迷いました。
 結局、家族の安否が少しでも早く知りたかったこと、車を置き捨てることにより被災後の生活に支障が生じることなどから、3番目の迂回路案を採用しました(普段の業務の比較検討が役立った?)。

 その途中、通過するB市も津波で甚大な被害を受けているとのことで、いちかばちかの賭けでしたが意外とすんなり通過。C方面へ曲がる交差点前方は、大渋滞でした。
 約1.5時間かけて、A道路入り口に到着。しかし、橋桁に段差が生じ、通行不能とのこと。仕方なく、旧道の峠ルートに急ぎました。この晩、この峠付近は、すごく吹雪いていて、道路がつるつるになっており、タイヤを滑らせながら峠を通過。トンネルがあるのですが、トンネル内の照明は消えていて、真っ暗でした。

 ようやく帰宅。AM2:30ころだったと思います。
 真っ暗で何も見えない状況でしたが、家の玄関に近づくとかぎを開ける音がして、妻がでてきました。全然帰ってこないので、波にさらわれてしまったのではないかと心配していたということでした。
 その晩も余震が続き、またラジオをつけたままで寝たため甲信越地方で起こった大地震の緊急地震速報に何度も起こされながら朝を迎えました。

 最後に、私の妻の実家が海に近いのですが、安否確認と食料などを届けるため、リュックサックに食料を詰め込んで行ってまいりました。この集落は、半島の岬にあり、道路が1本しかありません。しかもがけを切土して作られていますので、異常気象時には通行規制がかけられることも少なくありません。
 行ってみると、その道路入り口にあたる集落が津波によって、壊滅状態でした。道路の瓦礫などは、自衛隊などによって取り除かれ、なんとか車で通過することができました。本当に、ここまで津波が押し寄せるのかというところまで、家屋は壊れ、泥をかぶった車などが散乱しておりました。その津波が到達した末端部には老人ホームがあるのですが、約40名の寝たきりの介護者が流されてしまったそうです。

 沖のほうをみると、あったはずの高さ10mくらいの防潮堤がありません。また、これは驚いたというか感心したことなのですが、古来から使用されてきた道路は、その際までは瓦礫などのせまって堆積しているものの、全然被災していないのです。妻の叔母は、この旧道の存在を知っていたため、この津波時に集落から市街地の方へ出かけていたのですが、帰ってくることができたそうです。
 こうした旧道というのは、古来の人々もやはりこうした災害に会い、未来の私たちへ示してくれた暗示なのかもしれません。こうしたことも、災害から人命や財産を守るためのソフト対策を今後検討していくうえで、何かヒントを与えてくれそうな気がしませんか?
 この旧道の最も低くなる谷あいの部分、つまり津波が道路際まで最も押し寄せてきた箇所なのですが、道路を挟んで山側にはお寺があり、門が沿道に面しております。これも、古人の暗示なのかもしれません。



日々寸感 | 【2011-03-19(Sat) 19:51:35】
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